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写真で見る銀座アスター75年のあゆみ
昭和元年〜42年 創業から戦災、再建、アスターちゃんの時代
 大正15年が昭和元年(1926)に改元する、慌ただしい時期に、銀座アスターは開業した。
 インテリアもサービスも、斬新なアメリカン・スタイルを標榜し、料理の売り物は、やはりアメリカの中国料理独特のチャプスイ(中国風シチュー)であった。店名のアスターは、そのころ上海にあった超一流ホテル、アスター・ハウスからとっている。

 この洋風志向は、創業者の矢谷彦七(当時38歳)の履歴と深い関わりがある 矢谷は20歳のころから、事務長として、ハワイ・サンフランシスコ航路の貨物船に乗っていた。その後船を下りると、牛乳配達から出直し、やがて矢谷バターを創業して、一時は日本のバター販売シェアの6割を占めたほどの実績をつくった。
 当時の日本人としては、突出した経験と知識を駆使して、新しいスタイルの中国料理店経営に乗り出したわけである。最先端を行く街、銀座にはぴったりのレストランで、店はつねに盛況をきわめた。混み合ってくると、ドアを閉めて客止めにして入れ替えるほどであった。元年の大晦日の売り上げは1000円を記録したが、1500円で一戸建ての家が建った時代である。

 矢谷自身の回想によると、その後、ある中国人から、「もっと中国ムードを出したほうがいい」と忠告され、素直にこれに従った。書物を調べながら徐々に変えていき、そのうちに中国人の経営かと間違われるまでになったという。現在の高級中国料理店としての基礎を、早い時期に築き上げていたことになる。
 戦中、戦後は物資の不足に悩まされ苦闘したが、昭和20年代の後半にはじまった、デパートののれん街ブームで新しい分野を拓いた。食料品売り場にデリカショップを出し、戦前からのヒット商品のシューマイをはじめ、饅頭、餃子などの販路を拡大したのである。これと並行して、レストラン店舗も増えていった。
 特に昭和31年(1956)に銀座アスターが発売を開始した焼き餃子は大変好評で、製造が間に合わないほどだった。餃子、シューマイ、饅頭などの製造ははじめ銀座の本店で夜間に行っていたが、需要に応えるために、築地や原宿などに食品工場を建設していく。

 あまりの忙しさのため、矢谷は過労で倒れ、昭和32年(1957)の正月には、生死の境をさまよったこともある このころ、車体に「アスターのシューマイ」と大書した食品配達車が、東京の街を走るのが見かけられるようになった。広告と宣伝の必要性は早くから認識されていたが、昭和34年(1959)に、創業者の娘の太田喜久子(当時28歳)が、宣伝部を担当するようになり、一層拍車がかかった。
 その発案で生まれたのが、チャイナ・ドレスのマスコット、アスターちゃんで、とくに女の子の間に人気を博した。昭和36年(1961)には、人気シリーズ『名犬ラッシー』ではじめてテレビ・コマーシャルを打ち、CMソングも流した。
 子どもたちに、企業イメージを拡げていくアイディアは、大きな成功を収めた。おかげで、昭和30年代の終わりには、銀座アスターの名前が広く知られるようになった。

 昭和42年(1967)6月、遂に創業者、矢谷彦七が逝去する。それは、銀座アスターにとって、疾風怒涛の時代の終わりでもあった。


アスターちゃん(昭和35年9月)
左のほっぺにごはんつぶをつけて、チャイナ服を着た、銀座アスターのイメージキャラクター。
生みの親は当時の宣伝部部長太田喜久子(現副会長)。銀座アスターの焼売を買ってシールを集めると大・中・小とさまざまなデザインのアスターちゃんがもらえた。焼売を実際に食べるのは、家庭で大切にされた子供たちであること、子供のころに銀座アスターに良いイメージを持ってもらえば、大人になって銀座アスターのお客様として来店してくれるであろう、というのが、子供向けのキャラクターを考えた理由である。当時大変な人気で3年間に50万個を出荷している。女の子のキャラクターとしてはペコちゃんにつぐ人気で、現在も蒐集家の間で取引されている。

矢谷バター
創業者矢谷彦七が大正7年に築地に興した有限会社矢谷バターは、カナダ、ニュージーランド、オーストラリアからバターを輸入販売し、当時日本のバター流通量の60%を扱っていた。バター以外にも、カリフォルニアレーズン、サンキストの果実缶詰などを扱い、帝国ホテル、精養軒などに卸していた。

矢谷彦七デザインの
銀座アスター創業時の「ちらし」

昭和4年刊の『東京食べ歩き・銀座界隈』には「米国式支那料理を標榜するアスターは入り口のウインドに食べ物の皿を値段入りで並べ、人物本位で客を引き寄せている。豚のチャプスイ等なかなか安くてうまい。一卓五円位の食事を三四人でつついて食べるのもいい」と記されている。

楽町駅頭の
焼売宣伝女性

(昭和20年代後半)20年3月の東京大空襲で店舗焼失した銀座アスターは、21年に平屋で再建するが、占領下の物資統制のため中国料理をつくることができず、喫茶店として氷、アイスクリーム、コーヒーなどを販売していた。その後店舗を増築し、23年に中国料理店として再スタートを切る。29年に焼売、饅頭の百貨店売店販売を開始し、社名も銀座アスター食品株式会社となった。

焼売弁当
昭和32年には店舗も銀座本店、日本橋紫苑のほかに7店舗に増加した。そして、本店の料理が評判となり、デパートからの出店依頼がひきもきらなかった。この年、大阪三越の東京物産展に東京の名店として出店している。焼売弁当は当時の人気商品の一つ。

 
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